一
特集インタビュー  01 > 02
プロフィール…阿部 一信。昭和25年2月23日、代々続く米作り農家の長男として生まれる。栗原農業高校卒業後、六代目として家業を継ぐ。昭和48年3月に結婚。平成10年8月(有)ライシー宮城を設立。平成19年4月、株式会社へ移行する。
 米の卸業を営む阿部氏。この日のインタビューは、広々とした田園のなかにある会社の事務所内で行われた。緑豊かなこの町で、阿部氏はどのように農業と向かい合って来たのだろうか。始めに現在の仕事までの経緯を語ってもらった。


「農業は、高校を卒業してからずっとやっている。だいたい40年くらいかな。代々続く米農家で、私で六代目になるね。両親の代では、年間365俵の米を売れば暮らしていける時代で、365俵売る事を目標に田んぼを広げていったんだよ。私が仕事を継いだ時には、その目標は達成していたんだけど、その時にはそれだけでは安定した暮らしが送れる時代ではなくなっていたんだ。」
 余剰米の増加に伴い1970年から始まった減反政策。それにより米の価格が下がっていった時代。阿部氏の所有していた田んぼは町内で一、二の面積であったが、それでも生活は苦しいものだった。その窮地を打破するため、新たな境地を見い出す。

「とにかく本業だけでは苦しかった。だから、副業として養豚を始めたんだ。でも頭数が増えていくと、今度は糞尿処理の問題に突き当たってしまった。近所への悪臭、毎日の糞尿処理…。苦労の割には、結果がついてこなかったから、養豚を続けていく事はできなかったんだ。」

「それで、米の生産だけでなく販売を始めたのが、平成4年から。当時、米の販売は食糧法で規制されていて、農家が直接量販店に米を卸す事は禁止されてたんだよ。だからクズ米を菓子の原料として販売していたんだけど、平成7年の食糧法改正により、状況は大きく変化していった。この改正で、本格的に販売する事ができるようになったんだ。そして平成10年8月、この会社を設立したんだ。」
 時代や政策に翻弄されながらも、その時流の中に道を見い出そうとしてきた阿部氏。幾多の困難を乗り越え、受け継いだ家業を新しい形として実現。米の生産から販売まで行うという取り組みは、金成では阿部氏ただ一人だという。では、その仕事はどのようなものだろうか。
「私が通った高校は農業高校だったから、同級生はもちろん、先輩や後輩まで、周りの人達のほとんどが農家の後継者だった。そしてこの事業を始めた時、当時からの仲間達に本当に助けられたね。この時ほど、『一人では生きられない』と痛切に感じたことはなかった。そして今でも、その仲間達が集まり、大きな生産グループとして一つになっている。」

「それから、もともと養豚時代から付き合いのある『昭産商事(株)』さんとの仕入れ・販売の取り引きが増えているね。内容は、『昭産商事(株)』さんが農家から米を仕入れ、それをライシー宮城で商品にする。さらにそれを『昭産商事(株)』さんがスーパー等に卸すという流れかな。他には、地元の『JA栗っこ』からの仕入れも多いね。私自身も『栗っこ』の稲作部会の会員だからね。」
「やはり目標を達成するためには、個人だけでの販売では限界があるんだ。農村地帯で生まれて、当たり前のように生活してきた人も、今では農業だけで生き残るのはごく一部になっている状況。そして、これからも『農業』というものが大きく変わっていくと思う。皆で生き残るために、生産者に助けられ、販売側として助ける。そうして、お互いに良い米を作っていく事が今後の目標。同じ目標を持つ仲間も増えつつあるよ。」
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