ほら、あなたの隣。
その彼が私かもしれませんね…


vol.96(08.05.09 UP!)

【夕陽に向かって】

この国は平和だ。

今年に入ってから、事件や事故が一件も発生していない。確か去年もそうだったし、その前の年も同じだったような気がする。


ドゥーン…


書斎のコンピュータの起動音が響く。ブラウザを立ち上げ、世界中の事件・事故発生状況を調べた。

殺人、強盗、傷害、交通事故、食中毒、ウィルス、テロ、暴動…。世界中では、毎日のように何かが起きている。そして、毎日のように人間が死んでいるのだ。

私たち人類が目指した文明とは何だったのだろう。どんなに文明が発達しても、人類を構成する根本的なものは変わることがないのだろうか。

いや、違う。我が国を見れば分かるだろう。この国では、すでに数年にも渡り、事件や事故の類いは発生していないのだ。これこそが人類の求めた文明社会であり、人類のユートピアなのだ。


私の日常は本当に平和なものだ。

仕事は全て自宅に居ながらにして行える。政府から送られてくる資料に従ってデータを入力する事が主な業務だ。データの送受信を行う事ができる環境であれば、どこに居てもできる。

そして、納品用のデータを送信する度に、私の口座に電子通貨が振り込まれる。一ヶ月で振り込まれる通貨はおよそ8万円。十分過ぎる額だ。



「タカシちゃん、〈楽zon〉からお荷物が届いたわよ」


音声データを合成して作られた母の声がする方へ向かう。そこは、銀色の金属トレーが備え付けられた、言わば宅配ボックスだ。そこに、一つのカプセル状のものが置かれている。

〈楽zon〉を利用すれば、世界中のありとあらゆる物が手に入る。もっとも、本当に必要な物などほとんどないのだが。

昔、人類には「衣食住」というものが必要とされていたそうだ。

「衣」とは、肉体の外部に装着するもので、布状のものや金属のものなどがあったらしい。私は実物を見たことはない。今後、必要とすることもないだろう。

「食」とは、体内に異物を採り込んで、それを栄養源とすることだ。昔は動植物を殺していたらしいのだ。

しかし、残念ながら現在はそういった生物を実際に見ることはできない。電子動物園の3Dホログラムで実像化されたものならば見ることはできるが…。

「衣」も「食」も過去の遺物だ。我が国では「住」さえあればいいのだ。整った住環境さえあれば、十分に恵まれた暮らしを満喫できる。

24時間365日、0.1度の誤差も起きない室温に保たれ、細菌の一つも存在しない空気が巡っている。

室内を巡る空気には、気化した栄養素が含まれている。呼吸をするだけで、必要な栄養を摂取することができるのだ。




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